「シンポジウムを開催することになって、外国から何人かパネリストが来るから、君に通訳を頼むよ。英語がじょうずだったよね。」
「あ、はい。分かりました。」と言ったものの、本当に通訳できるかなあ。友達の日常会話程度の通訳はやったことあるけど、シンポジウムとか会議みたいな場面での通訳は経験ないしなあ。どうやって準備しようかなあ?
このような疑問に応えます。
通訳の準備は、大きく分けて2つ。実務的なことと、通訳技術そのものです。今回の記事では、通訳をするための実務的な準備のポイントをまとめます。(通訳技術については別の記事を書きます。)
行事内容の下調べと用語集の作成
まず、通訳をする行事内容の下調べをします。シンポジウムで通訳をするのなら、どのようなテーマが討議されるのか、そのテーマの背景は何なのか等を把握します。例えば温暖化対策のシンポジウムなら、関連する国際的な枠組み「パリ協定」の内容や、同協定の具体的な実施ルール、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の「評価報告書」や「1.5℃特別報告書」などの内容を把握しておきます。また、念のため京都議定書も復習しておきます。さらに、各国の取り組み、政策、などの情報を英日両言語で集めます。
次に、当該行事で頻繁に使われそうな用語を集めて用語集を作ります。Excel などを使って、用語を次から次へと入力して、最後に「並べ替え」機能を使ってアルファベット順にすればいいですね。英日通訳をする予定なら英日用語集を、日英通訳なら日英用語集を、両方向の通訳をするのなら、両方の用語集を作ります。
また特に専門的な分野での通訳では、通訳の依頼側に対して、専門用語や定訳(その分野で広く使われている訳語)などがあれば知らせてくれるよう要請をします。
発表者と主な参加者の名前、肩書、所属機関や団体
これも通訳の依頼側から提供されるべき情報ですが、発表者と主な参加者の正確な名前と肩書、所属機関や団体などを確認します。こういった情報を間違えると失礼になるので、日本語と英語での正確な言い方を把握しておきます。
例えば、日本の外務大臣は Foreign Minister あるいは Minister for Foreign Affairs と言います。(外務省のホームページが参考になります。)しかし外務大臣に相当するアメリカの閣僚は Secretary of State と言い、日本語では国務長官と訳されます。日本の防衛大臣は Minister of Defense と英語で言いますが、それに相当するアメリカの閣僚は Secretary of Defense で、国防長官と訳されています。基本的に「大臣」はアメリカでは「長官」と言われますが、相違点はこれだけではないので、正確な言い方を把握しておきましょう。アメリカだけでなくほかの国に関しても同様にその国で使われている英語の肩書表現及びそれを日本語でどのように言い慣わしているかを把握します。
実は、上にあげたような、ニュースで頻繁に言及される重要ポストについては、通訳をする当該行事に直接関係があるかどうかは別にして、日英両言語で知っておくことが賢明です。通訳をしている最中に発表者・発言者がそういった人々に言及するかもしれないからです。
もう一つの例として、EU の機関と役職を見ましょう(ウイキペディアなどが参考になります)。EU は日本語では欧州連合またはヨーロッパ連合と呼ばれますね。
EU の重要な機関を3つ挙げます。(1)欧州理事会 European Council、(2)欧州連合理事会 Council of the European Union、そして(3)欧州委員会 European Commission。ここで(1)と(2)を混同しないように注意したいですね。欧州理事会は加盟各国の首相・大統領から成るEUの首脳の集まりですが、欧州連合理事会を構成するのは加盟各国の閣僚です。欧州理事会は EU の最高意思決定機関であるのに対して、欧州連合理事会の主な役割は、欧州議会と共同で EU の立法責任を担います。混同を防ぐため、欧州連合理事会はEU理事会と表現されることが多いです。
次に、EUの重要なポストを3つ挙げます。(1)欧州理事会議長 President of the European Council、(2)欧州委員会委員長 President of the European Commission、そして(3)欧州連合外務・安全保障政策上級代表(外務大臣に相当するポスト)EU High Representative of the Union for Foreign Affairs and Security Policy (「of the Union」の部分が省かれることもあります)。(1)の欧州理事会議長は、報道ではEU大統領とも呼ばれ、例えば NHK では「EU=ヨーロッパ連合のトゥスク大統領」などということが通例です。首脳レベルの国際会合でEUを代表する第一人者として G7 や G20 などに出席します。(2)の欧州委員会委員長にもEUを代表する権限が与えられており、国際的な首脳会議に参加します。従って、例えば G7 に出席する EU の代表は、欧州理事会議長と欧州委員会委員長 の2人です。ちなみに、EU は G7 の invitee(被招待国)ですね。(ということで、G7 の出席者は全員で9人です。)
政府以外の重要な機関やポストの言い方も大切です。中央銀行や国際機関、及びそれらの重要ポストがどのように言われているか、確認しておきましょう。例えば、日本の中央銀行は日本銀行と呼ばれ、英語では Bank of Japan 、そのトップは総裁と言い英語で governor です。欧州中央銀行(ヨーロッパ中央銀行とも)は European Central Bank、その総裁は president です。アメリカでは中央銀行に相当するのは連邦準備制度理事会 Federal Reserve Board と言い、そのトップは議長、英語では chairman です。
ちなみに、2つ以上の言い方が普及している用語や役職名などは、通訳をするときにどのように扱うか、という問題があります。上で言及した欧州理事会議長は良い例です。一つの解決策は、通訳の依頼側の意向を尊重すると共に、実際に通訳を聞く人たちが最も理解しやすく誤解しにくい言い方を採用するということです。NHK は公共放送として分かりやすさを重視していると仮定すれば、NHK の言い方を参考にするということを考慮しても良いでしょう。
発表者の専門分野、発言内容、言葉遣い
通訳の準備で大事なことの一つは、発表者の専門分野・領域を調べ、どのような発表・発言をするか予測するということです。
原則として、通訳の依頼側と打ち合わせをするときに、発表で使う読み上げ原稿が準備されるのであれば、事前にコピーを頂きたいと要請をします。仮に、当日まで原稿が完成しないという返答であれば、発表の直前でもいいから、コピーをほしいと要請します。発表・発言内容に関して全く情報が無いよりは有る方が、通訳の質は良くなるからです。
一般的な傾向として、読み上げ原稿のコピーが提供されるとしても、大抵は行事の直前です。また、事前に原稿が届いたとしてもそれ以降当日までに変更がなされることもよくあります。
いずれにせよ、原稿が届く予定があるかどうかは別にして、発表・発言の内容をリサーチすることが有益です。一つの方法として、発表者の著書や論文、過去の講演などを調べます。もしも複数の通訳者がチームを組むのなら、分担を決めて自分の担当する発表者と発表内容に絞ってリサーチすれば時間の節約になります。また、そういった過去の発表などが見つかれば、それを使って通訳の練習をしておくことは大変有効です。
また、発言内容のリサーチに加えて、発音や話すスピードなどしゃべり方の特徴を可能な限り調べることは有益です。英語で運営される会議であるからと言って、発表者が全員、多くの日本人になじみのある標準的なアメリカ英語を、普通のスピードで話す人だとは限りません。行事の当日に発言が始まった瞬間に、非常に聴き取りにくい英語だと感じると、集中力が途切れかねません。
私が困った経験から例をあげますと、東南アジアのある国出身の発表者の英語のスピーチを同時通訳していて、3分の2くらいしか理解できなかったことがあります。複数の言語に同時通訳されていたのですが他の言語の通訳者も話者が何を話しておられるのかがよく分からず、「そして、そして、それから、(云々)」としゃべっていたと後で聞かされました。アメリカ南部の人の発音も、難しい時がありましたし、フランス語なまりの人は「h」を発音しないので混乱したりしました。また、ポルトガルの人がスピーチの中で「シェヒトゥヒー」と言ったように聞こえてきて何のことか分からずフリーズしてしまった次の瞬間にブースにいた同僚が「cherry trees」と教えてくれたこともありました。非常に早口なインドの発表者の通訳は、発音とスピードに苦労しましたし、マレーシアのある政治家は感情が高ぶってきて大声で自らの主張をまくしたてられたので、ついて行くのが必死でした。
また、日本人の発表・発言を英語に通訳するときは、通常発音は問題になりませんが、話すスピードは要注意ですね。遅い人はいいのですが、ものすごく速くしゃべる人の発言は通訳しにくいです。そういうしゃべり方をする人だと事前に分かっていれば心の準備が出来て当日落ち着いて通訳に臨めますから、やはり前もって話し方の特徴を調べることが有益ですね。
何年か前に、ある国会議員の発言を通訳する機会があったのですが、この人は機関銃の様なスピードでした。たまたま、事前のリサーチで、過去のスピーチの動画に遭遇し、早口だと分かっていたということ、そしてボーナスとして、その動画の発言内容と重なる内容も当日の発言に含まれていたことも功を奏して、何とか対応できました。
原稿の準備
発表原稿が事前に届けられた場合は、時間的に可能であれば翻訳しておきます。その際に注意したいことは2点。
読み上げ原稿だということで届けられた原稿だからと言って、当日にアドリブが全く入らないとは限りません。事前に作成した翻訳を読むだけでいいのだという気持ちで通訳していると、突然アドリブが入った場合に頭の切り替えが出来ず即座に通訳できないということになりかねません。読み上げ原稿でも、話者がいつ脱線するか分からないという心構えで通訳に臨みます。
翻訳をする時間が無い時は、可能な限り、専門用語や定義など訳出しにくいと思われる部分の訳だけでも考えて原稿に書き込むとかアンチョコを作るなどします。時間が許せば、部分的にでもサイトトランスレーションをしてシミュレーションをするのは非常に有効です。
以上の事前準備は、時間があるのであれば最低限やっておきたいですね。
携帯物品
最後に、実際に通訳をするときにはどんな物品を持っていくべきか考えます。同時通訳なのか逐次通訳なのか、また、どんな会場なのかによって持ち込むべき物品が異なる場合があるので、臨機応変に対応します。
(1)メモ用紙(メモ帳)。通訳をするときはたくさんメモを取ります。どんなメモ用紙やメモ帳が良いのでしょうか?通訳者が立って逐次通訳をするときなど、メモ用紙を置くテーブル等が無い場合は片手でメモ帳を持ってメモを取るので、ふにゃふにゃのメモ用紙は賢明ではありません。ある程度しっかりしたメモ帳を持っていくのがいいでしょう。クリップボードにメモ用紙を挟んで使うことも可能ですが、気を付けたいのは、あまり大きなサイズのメモ用紙はページをめくるのが煩雑であり、通訳メモには向かないということです。B5 よりも大きい紙はめくりにくいと思います。通訳者の席にメモ用紙を置くテーブル等がある場合は、どんなメモ用紙でもいいですが、やはりあまり大きすぎると、めくるのが大変です。なお、裏紙でも構いません。
(2)ペンを複数本。使いやすいボールペンを何本か携帯します。途中でインクが無くなるとか他の理由で書けなくなる可能性はいつでもあります。ちなみにシャーペンや鉛筆は芯が折れたりするので不向きですね。
(3)双眼鏡。同時通訳ブースが会場の後方にある場合など、板書やパワーポイントのスクリーンが遠くて見難いときは望遠鏡が必要になります。
(4)辞書・モバイル端末。辞書を使える環境での通訳なら、辞書はあるに越したことはありません。なるべく新しく充実した内容の電子辞書を携帯します。もちろん、スマートフォンやタブレットなどのモバイル端末を持ち込むという方法もありますね。オンラインの辞書も使え、検索もできて便利ですね。その際は、音が出ないモードで使用します。
(5)ヘッドフォン。同時通訳ブースには用意されていますが、自分が使い慣れているヘッドフォンを持っていく通訳者も多くいます。衛生上の理由だけでなく、例えば、通訳をしている自分自身の声が聞こえすぎると話者の声が聴きにくくなるので、耳をきちんとカバーするタイプのヘッドフォンを好むとか、長時間装着していると耳が痛くなるようなヘッドフォンだと困る等の理由があります。
(6)水。のどが渇いてきて声が出にくくなるといけないので、持ち込めるときは携帯しましょう。
通訳の実務的な準備は以上です。